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みなさん、今日も一日、お疲れ様です。
今回の誤解を招くような身勝手な書き込みで
いやな思いをされたり、御心配をかけたり
ブログに来てくれたみなさん、本当にごめん
なさい。
自分にそんなつもりがないにしても、言葉
は本当に難しく、誤解をされても全く弁解
のしようもない内容にとれますよね。
このブログはみんなを応援するための僕が
始めたブログ、もっと言葉に気を付け、みんな
に伝えたい言葉を選び、言葉をまとめるべき
でした。本当にごめんなさい。
反省しお詫びいたします。本当にごめんなさい。
中川謙太郎
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みなさん、今日も一日、お疲れ様です。
なにしろ、Jという感謝してもしきれない、
傷つけられない、傘の中で約8年間、暖かく
学ばせてもらった俺は、元来、男は己で
危険をはらい、自ら道を創る事が基本という
ことにすっかり無頓着になっていたわけです。
そしてまず、食べて行くための職場で最高の
出会いを神様が用意していてくれました。
彼は12歳くらい年下ですが、その人間力
はこれまでに数回しかあったことのないハート
で俺に一から麺職人というか、生きるための
集中力、注意力、決断力などを行動で示し
学ばせてくれました。これまでの出会いでも
本当に最高の出会いでした。
彼のそんな魂に突き動かされ、かなり短期間
に麺作りを習得出来ました。ここで俺は自分が
輪郭線の太い人達を誤解していたことに気がつき
ました。麺業会の集まりに参加したときそこは
まさに“輪郭のハッキリした方々”のあつまり、
胸を張り堂々と麺作りにおける“戦い”をみんなが
くりひろげていました。
目的をはっきり持ち、自分の意見を礼儀をわきまえ
しっかりとした口調でそれぞれが生きた言葉で
しのぎ合っている、おれは自分が世間のみなさまに
伝えたい事をしっかりと胸をはり伝えられなくなって
いました。
”俺なんじゃん!!だめなのは!!!”
最高の麺をめざすことが、やがて、最高の音楽
をも目指す”車の両輪”状態になるのに時間は
かかりませんでした。麺をひっしにやればやるほど
ステージでお客様の前でなにをプレイすべき
か!14のころの情熱の火種が燃え始めていました。
短期間で年下の尊敬する上司に”中川サン!あすから
全部まかせますから!”捨てたもんじゃない自分と
消えるはずの無い自分が静かに融合しはじめたのです。
“絶対にステージに立つ!“その言葉を尊敬する上司
に約束し、輪郭線の太い人=苦手な人の構図は、
=同志、ライバル、仲間、という方向に変わってい
ました。そしていよいよ、最高の相方が不思議な
縁のもとあらわれるのです。
このころはっきり覚えているんですが、ノート
にこうあります、“課題は人間力!”下を向き
ひねくれ始めていた俺は、尊敬する年下の上司
に人間力を学び始めていました。
中川謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れ様です。
弱い自分は、それでももう二度と自分を
誰かほかの人に”まかせたりしない”と強く
誓った。まるで蹴られても蹴られてもがまん
し続ける”ガンジー”のように。
ある日”輪郭線の太い人”が現れて設計図を
くれた。”これはあなたの設計図です”もう誰も
自分を人に任せたりしないと強く誓ったぼくは
、・・・・・破り捨てた。
最新PCによる打ち込みの団体が現れて
”これをあなたの楽器で奏でてみませんか?”
輪郭線はさほどこくない、人間的には
いいひとなのだろう、でも、
”おことわりします!”
ひとりでやろう!!おれはひとりで音楽
道を進むんだ!!!!そう思えば思うほど
輪郭線の太い人達が自信満々に批評している。
自信のある人といえば頼りがいのある頼もしい
人材に見える。が、僕の中ではその価値観は
完全に違っていた。
『おれになんかいいたいなら、堂々と目の前に
きて、面つきあわせて言ってもらえんでスカ?』
痙攣する顔に”?”な目をして輪郭線の太い人
たちは、“アーティスト”面をぶらげて自分の
世界に酔っているようにしか見えてない事を
気づかぬまま、2割増の帰路につく。
七つの大罪が鼻につくような“輪郭線の太い人達”
をぼくは、一方的に拒絶するようになった。
2割増の帰路?歩け!!!!
人の話をききやがれ!!!!!
お前中心の世界?別でかってにやりやがれ!!!!
チームプレイをまとめる監督をやりたいなら
まず、俺の心をつかんでみろ!あ〜〜〜〜!
男における”扉を出れば7人の敵”の敵達はまさに、
自分の中心で世界を叫んでいました。自信満々
は大いに結構、でも冷静に自分を見つめることが
できる”輪郭線の太い人”は出会った事がありません。
しかし、そういう方々が、この世界に犇めいている
、それが事実だとしったのです。
中川謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れ様です。
”HOLLYWOOD"がデビューした95年、
そんなテーマでうたを作って行きたい
と心から思った日から、今日で15年
と二ヶ月、人は弱い!と理解し、飲み込む
までの日々は相当で、テレビや映画などで
見る”目立つ人”は、へんに強く見えて
憧れていたところがあって、僕は“妄想”
のとりこになっていた頃がありました。
“世界の中心で・・・・”なんて言葉が
出始めて、”そっか!!人はみんな
自分が中心なんだよなぁ”と思い始めて
歯車が狂い出した。だから何?的な
ふぅ〜んそれで?的な、冷めた自分が、
現れ始めた。いつか、この感情と対決
するときが、くる!!そう感じていました。
人の前で相対する方々に真っさらな自分
ではいられなくなった始まりでした。
”おれは、弱い!!!”そう自覚すればするほど
僕は自分で自分の好きだった部分を
どんどん無くして行きました。そして武装
することを覚えた。そんな自分を見るのは
超いやでした。
弱い自分のどうしょうもなさ、今はそれが
おれらしくかわいらしく、微笑ましく、
残念だけど愛おしいです。そして、裸の
自分が今、これを書いています。
強さを求め、ステージに立ってた20年
前の自分がかわいらしいです。よしよし
って強く抱きしめてやりたいです。狂おしい
ほど夢一直線、でも空回り、なつかしい・・。
いい足りるまで、自分の"セキララ”を書かせて
ください。ごめんね、でも今、こうしたいんです。
中川謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れ様です。
いろいろあって、誰の見方も得られないまま
ひとりになったあの日、その日はまだよく、
その日に至るまでの追い込まれ方、今となって
はいい社会勉強、1972ではありませんが
”一気にすべてをなくした”旅立ちでした。
こんなことを書くつもりは無かった、でも
今書こうと思うのは、確実なる次のステップ
に移行するための”すべてを吐き出す”意味合い
です。
明日からどう食って行こう?思うほど僕の
交感神経と副交感神経のバランスは壊れはじめ
“片側顔面痙攣”になりました。治す手段は
手術のみ、そんなお金はなく、未だ病院に
通ってます。
とにかく食べるための職が急務、麺職人の
張り紙に気合いを入れました。見習い期間
3ヶ月、10万にみたない月収、顔は痙攣
、それでも世界一の麺をつくってやる!!!
そんななか、疲労困憊の毎日、ぼぉ〜っと
する日々、”僕の音楽はどこに?”そんな日々
の繰り返しに心の中の音楽への種火がだんだん
弱り出すのがわかってきたころ、中指はくり
骨折、へたをすると二度と使えなくなる
ところでした。もう一度、音楽へ呼び戻し
てくれた仲間達数人のなかにシマゼンが
いました。
こうして書くとなんてないことのようですが、
正直もうダメだと思っていました。気が付けば
顔面痙攣、あれだけ奮い立たせて来た自分、
14から目指して来た自分が、その夢に
蓋をしそうでした。
つらかった。人生のあまくなさを身を以て
知るに至りました。”地獄の道より光へと
続く道は長く険しい”ミルトンの言葉が
頭をループする日々。ようやく経たお給料
も家賃と生活費で残らず、大好きな映画も
みられなくなっていき、毎日ジョニミッチェル
とエンリオモリコーネを慰めにしてたあの頃。
どん底は存在してた。これほどかというほど
強力でした。痙攣は毎日1時間に3回ほど
顔をひきつらせてくる。だんだん人に会うのが
いやになる。心に”魍魎”が湧き始めた頃
シマゼンが近くにきてくれた。毎日あって
まず、遊びからはじめた。僕の音楽の火種
に性能のいい油が注がれて行くとわかった。
音楽をスタジオで練習し始めた頃、僕の
なかの“魍魎”が姿をかくした。まだ、どこかに
いるのかもしれない。音楽に最も必要な
”おれがやるぜ!!!”があぶりだしのように
日増しに心から浮かび上がって来た。
そして初ライブ。
いねむりを10年以上も続けていたことに
気が付く。自分は何をして来たのか?自分
だったのか?自分だったにしても”魍魎”に
おおわれた心は自分でも想像していないくらい
すべてを曖昧にしていた。
おそらく痙攣をキャラに出来たころ、ぼくたち
はもうひとつ高いステージに上がると確信して
います。
しかしこんなに早くここまできたのは”シマゼン”
のおかげ、仲間達のおかげ、みんなのおかげ
です。それから、両親。
みんな、おやじ、おふくろ、また戻る事が
できました。”ROCKのチャレンジコース”に。
7月26日、最新アルバム”裸のディナー”と
ともに次のステップに入った”ぼくたち”を
堪能して頂ければうれしいです。
正直今回はダメかと思ってました。もう
立ち上がれないかと。いまは、ほっとしてます。
まだまだ、最高の状態ではないと正直に
みなさんに告げておきたいと思います。
でも、ここを進む!そう決めた僕の”ザマ”を
しっかりみておいてほしいと思っています。
今後ともどうかよろしくお願いします。
きずのない人なんていないことを知りました。
ぼくでよかったらお力にならせてくださいね。
それでは・・・・。
中川謙太郎
いろいろあって、誰の見方も得られないまま
ひとりになったあの日、その日はまだよく、
その日に至るまでの追い込まれ方、今となって
はいい社会勉強、1972ではありませんが
”一気にすべてをなくした”旅立ちでした。
こんなことを書くつもりは無かった、でも
今書こうと思うのは、確実なる次のステップ
に移行するための”すべてを吐き出す”意味合い
です。
明日からどう食って行こう?思うほど僕の
交感神経と副交感神経のバランスは壊れはじめ
“片側顔面痙攣”になりました。治す手段は
手術のみ、そんなお金はなく、未だ病院に
通ってます。
とにかく食べるための職が急務、麺職人の
張り紙に気合いを入れました。見習い期間
3ヶ月、10万にみたない月収、顔は痙攣
、それでも世界一の麺をつくってやる!!!
そんななか、疲労困憊の毎日、ぼぉ〜っと
する日々、”僕の音楽はどこに?”そんな日々
の繰り返しに心の中の音楽への種火がだんだん
弱り出すのがわかってきたころ、中指はくり
骨折、へたをすると二度と使えなくなる
ところでした。もう一度、音楽へ呼び戻し
てくれた仲間達数人のなかにシマゼンが
いました。
こうして書くとなんてないことのようですが、
正直もうダメだと思っていました。気が付けば
顔面痙攣、あれだけ奮い立たせて来た自分、
14から目指して来た自分が、その夢に
蓋をしそうでした。
つらかった。人生のあまくなさを身を以て
知るに至りました。”地獄の道より光へと
続く道は長く険しい”ミルトンの言葉が
頭をループする日々。ようやく経たお給料
も家賃と生活費で残らず、大好きな映画も
みられなくなっていき、毎日ジョニミッチェル
とエンリオモリコーネを慰めにしてたあの頃。
どん底は存在してた。これほどかというほど
強力でした。痙攣は毎日1時間に3回ほど
顔をひきつらせてくる。だんだん人に会うのが
いやになる。心に”魍魎”が湧き始めた頃
シマゼンが近くにきてくれた。毎日あって
まず、遊びからはじめた。僕の音楽の火種
に性能のいい油が注がれて行くとわかった。
音楽をスタジオで練習し始めた頃、僕の
なかの“魍魎”が姿をかくした。まだ、どこかに
いるのかもしれない。音楽に最も必要な
”おれがやるぜ!!!”があぶりだしのように
日増しに心から浮かび上がって来た。
そして初ライブ。
いねむりを10年以上も続けていたことに
気が付く。自分は何をして来たのか?自分
だったのか?自分だったにしても”魍魎”に
おおわれた心は自分でも想像していないくらい
すべてを曖昧にしていた。
おそらく痙攣をキャラに出来たころ、ぼくたち
はもうひとつ高いステージに上がると確信して
います。
しかしこんなに早くここまできたのは”シマゼン”
のおかげ、仲間達のおかげ、みんなのおかげ
です。それから、両親。
みんな、おやじ、おふくろ、また戻る事が
できました。”ROCKのチャレンジコース”に。
7月26日、最新アルバム”裸のディナー”と
ともに次のステップに入った”ぼくたち”を
堪能して頂ければうれしいです。
正直今回はダメかと思ってました。もう
立ち上がれないかと。いまは、ほっとしてます。
まだまだ、最高の状態ではないと正直に
みなさんに告げておきたいと思います。
でも、ここを進む!そう決めた僕の”ザマ”を
しっかりみておいてほしいと思っています。
今後ともどうかよろしくお願いします。
きずのない人なんていないことを知りました。
ぼくでよかったらお力にならせてくださいね。
それでは・・・・。
中川謙太郎