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みなさん、今日も一日、お疲れさまです。
昨日のつづきを書きます。
とにかく、すごい街だったんですが、そこで得た
培った、人としての大切な物は、数えきれません。
校舎周りを巡回する覆面パト、酔っぱらって現れる
おじさん、生活のため身を犠牲に働いているおばさん
そんな状況にいち早く気がついたのは、中学校でした。
街の状況がとにかく悪循環を繰り返している、大人
が荒れれば、子供もあれる。当時の先生方はまず、
街と向き合ったんだと思います。”貧すりゃどんする”
という言葉どうりの状況を先生方は家庭訪問のような
ことを繰り返し、僕達が3年の頃には生徒の溜まり場
は、職員室でした。
とはいえ子供相手です。すごいストレスだったと思い
ますが、先生方はまるで友達のようにつき合ってくれ
ていました。「学校が楽しい!」後輩が言ってたのを
思い出します。
昼休み、運動場は当然のように3年のものだったのが
僕らのときは、1年も3年もありませんでした。
みんなごっちゃで遊ぶんです。サッカーをしていた
と思います。決まって5時間目は昼休みの延長でした。
「ほらぁ〜〜〜授業授業!」先生の声。
「うんうん、すぐ行くけんまっとって!」生徒。
しかし、先生方は無理矢理やめさせることはしません
でした。しかし、3年の時の街の状況から先生方なりの
目標をお持ちだったんではないかと察します。
先生方の”生徒たちと友達になり、生徒達の苦しみや
悩みを取り除く力となろう作戦”(仮)は、本当に
僕らに学校は楽しい所だと思わせてくれました。
相変わらずの状況、問題、事件はありましたが、生徒間
1年から3年までの礼儀挨拶などはありつつ、縦のなか
が俄然変わりました。僕らの代から先生方の血の出る
ような努力が実り始めたのでしょう。
全校集会などざわついてだめだこりゃだったのが
僕らが3年の時は本当に見違える状況がありました。
とはいえ、そんな状況からまたひとつ、高校に進学
するといままで、先生方の努力の上に乗っかっていた
もんだから校則に耐えられず学校をやめる友達も
少なくありませんでした。
先生方が蒔いた種は、見事に街を変えました。
もちろんそれだけが理由で変わったんじゃないと
思いますが、生きるために、現実を乗り越えるため
に街全体が前を向く原動力に目覚めたのは事実です。
この間、帰郷したとき15〜6年ぶりにその街に行って
きました。今では、その中学校に赴任したいという先生
がいらっしゃるくらい、落ち着いていました。
ゴミ捨て場や公園、海までの道や落書きの数などを見れば
だいたいどういう街かわかるもんです。
そういう意味では、本当に落ち着いた街に変貌していました。
それと、仲間を大切に思う気持ち、人を大切に思う気持ち
などを教えてくれたのも当時の先生方ではなかったかと
思います。他校との抗争は相変わらずありましたが、一度
やり合うと友達になるようになっていったように思います。
あったかい先生方でした。個人差はあったと思いますが
あの頃あそこに住んでいた同世代の人達は知ってるはずです。
先生方を。今思えば頭が下がりっぱなし、足向けて眠れません。
180度ちがう街に越してきた話はこれで終わりにします。
当時の仲間達、いろんなこと一緒に乗り越えて、いろんな
心情を交わし合い話し合った仲間達、これを読んでくれて
たら、僕なりの勝手な解釈、ゆるしてください。
でも、今も変わらずあの日、あの時、あの仲間達に出会え
事、本当に感謝してます。誇りです。あの街であの仲間
たちと過ごした日々。乗り越えた日々。思い出の中に
君も、君も、います。君は、就職決まったぁ〜〜と博多
駅で僕に報告してくれたね。またね!と僕がいったっけ。
君は、人生で初めてのステージに一緒に上がったよね。
中3時の文化祭、世界一の文化祭ができたばい!って
一緒に喜んだっけ。
仲間達、元気ですか?
赤裸々に話すつもりでした。でもやっぱりだめです。
思い出があまり愛しくて言葉にするのは、やめます。
mr kudo,これでいいかな?
みなさんの明日が良い一日でありますように
それでは、また明日。
謙太郎
昨日のつづきを書きます。
とにかく、すごい街だったんですが、そこで得た
培った、人としての大切な物は、数えきれません。
校舎周りを巡回する覆面パト、酔っぱらって現れる
おじさん、生活のため身を犠牲に働いているおばさん
そんな状況にいち早く気がついたのは、中学校でした。
街の状況がとにかく悪循環を繰り返している、大人
が荒れれば、子供もあれる。当時の先生方はまず、
街と向き合ったんだと思います。”貧すりゃどんする”
という言葉どうりの状況を先生方は家庭訪問のような
ことを繰り返し、僕達が3年の頃には生徒の溜まり場
は、職員室でした。
とはいえ子供相手です。すごいストレスだったと思い
ますが、先生方はまるで友達のようにつき合ってくれ
ていました。「学校が楽しい!」後輩が言ってたのを
思い出します。
昼休み、運動場は当然のように3年のものだったのが
僕らのときは、1年も3年もありませんでした。
みんなごっちゃで遊ぶんです。サッカーをしていた
と思います。決まって5時間目は昼休みの延長でした。
「ほらぁ〜〜〜授業授業!」先生の声。
「うんうん、すぐ行くけんまっとって!」生徒。
しかし、先生方は無理矢理やめさせることはしません
でした。しかし、3年の時の街の状況から先生方なりの
目標をお持ちだったんではないかと察します。
先生方の”生徒たちと友達になり、生徒達の苦しみや
悩みを取り除く力となろう作戦”(仮)は、本当に
僕らに学校は楽しい所だと思わせてくれました。
相変わらずの状況、問題、事件はありましたが、生徒間
1年から3年までの礼儀挨拶などはありつつ、縦のなか
が俄然変わりました。僕らの代から先生方の血の出る
ような努力が実り始めたのでしょう。
全校集会などざわついてだめだこりゃだったのが
僕らが3年の時は本当に見違える状況がありました。
とはいえ、そんな状況からまたひとつ、高校に進学
するといままで、先生方の努力の上に乗っかっていた
もんだから校則に耐えられず学校をやめる友達も
少なくありませんでした。
先生方が蒔いた種は、見事に街を変えました。
もちろんそれだけが理由で変わったんじゃないと
思いますが、生きるために、現実を乗り越えるため
に街全体が前を向く原動力に目覚めたのは事実です。
この間、帰郷したとき15〜6年ぶりにその街に行って
きました。今では、その中学校に赴任したいという先生
がいらっしゃるくらい、落ち着いていました。
ゴミ捨て場や公園、海までの道や落書きの数などを見れば
だいたいどういう街かわかるもんです。
そういう意味では、本当に落ち着いた街に変貌していました。
それと、仲間を大切に思う気持ち、人を大切に思う気持ち
などを教えてくれたのも当時の先生方ではなかったかと
思います。他校との抗争は相変わらずありましたが、一度
やり合うと友達になるようになっていったように思います。
あったかい先生方でした。個人差はあったと思いますが
あの頃あそこに住んでいた同世代の人達は知ってるはずです。
先生方を。今思えば頭が下がりっぱなし、足向けて眠れません。
180度ちがう街に越してきた話はこれで終わりにします。
当時の仲間達、いろんなこと一緒に乗り越えて、いろんな
心情を交わし合い話し合った仲間達、これを読んでくれて
たら、僕なりの勝手な解釈、ゆるしてください。
でも、今も変わらずあの日、あの時、あの仲間達に出会え
事、本当に感謝してます。誇りです。あの街であの仲間
たちと過ごした日々。乗り越えた日々。思い出の中に
君も、君も、います。君は、就職決まったぁ〜〜と博多
駅で僕に報告してくれたね。またね!と僕がいったっけ。
君は、人生で初めてのステージに一緒に上がったよね。
中3時の文化祭、世界一の文化祭ができたばい!って
一緒に喜んだっけ。
仲間達、元気ですか?
赤裸々に話すつもりでした。でもやっぱりだめです。
思い出があまり愛しくて言葉にするのは、やめます。
mr kudo,これでいいかな?
みなさんの明日が良い一日でありますように
それでは、また明日。
謙太郎
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みなさん、今日も一日、お疲れさまです。
バイクで学校の廊下を行くような場面ってマンガで
あるじゃないですか?
図書室のガラスを片っ端から叩き割る場面、先生を
3人くらいで袋たたきにする場面、たばこ吸いながら
授業を受けるような場面、
木刀もって脅し合う場面。
親友のmr kudoも同じようにそんな学校のある
街に越してきた一人です。マンガです。今思えば
本当に暴力マンガの真ん中に居たんだなぁと思います。
「はい〜〜〜マッテマッテぇ〜〜!ポケットの金を
全部だしなさぁ〜〜い」と先輩。
ぼこっ!あああごめん!いらついとうけんくさ!と
先輩。
でも、引っ越して2〜3年経つと自然になんというか
なれるのかなぁ。自分はそんなこと後輩にしたこと
ありませんでした。なにしろ、小学校5〜6年から
そんなような感じですから本当に、始めは地獄
でした。おまけにクラスではいじめ、放課後は街に
いる先輩方におどされ、たかられ、街の玩具屋やゲーセン
などいったら最後でした。ぼくらにたかる先輩がたは、
その先輩に、その先輩はその上の人に。
悪循環はそうして街を本当にマンガにしていました。
KUDO氏も書いてましたが、僕らが中3の時は最高に
いい空気でした。相変わらずの先輩も居るにはいました
が、みんな仲良くて先輩後輩関係も本当に良くなりました。
良い思い出は悪い思い出とはんはんくらいあるかなぁ。
感覚が麻痺している所もあったけど、とにかく暗い空気
が明るく変わりつつある感じでした。
その頃の先生方の血が出るような努力、改めて感謝しています。
きっと、あの頃のあの街に住む誰もが同じように
このままじゃいけない!と思っていたと確信します。
しかし、本当に最悪の暴力マンガそのまんまの街でした。
小学校のいじめは、家に帰ったらいじめっ子がいじめられてる
構図で、街全体が荒れていたんです。いじめっ子は
学校でいじめることで発散し、うちに帰ればやられる。
親たち、お年寄りまでが、荒れていたんです。
虐待、暴力、今でこそテレビに出てきて問題に取り上げ
ニュースになりますが、その程度ではありませんでした。
いいたくないことも山みたいにありますが、今みたい
にこれ以上やれば殺してしまうという判断はあった街
ではあったと思います。
しかし、10年住んでたんですが、今では、小学校
のいじめっ子は友達ですし、先輩でも会うと飲もうやぁ
みたいな感じだし、今は、みんな友達です。悪ばかり
でしたが、腐った奴はいませんでした。
また明日続き書きます。長くなる話ですから。
それでは、みなさんにとって明日が良い一日でありますように
また、明日。
謙太郎
バイクで学校の廊下を行くような場面ってマンガで
あるじゃないですか?
図書室のガラスを片っ端から叩き割る場面、先生を
3人くらいで袋たたきにする場面、たばこ吸いながら
授業を受けるような場面、
木刀もって脅し合う場面。
親友のmr kudoも同じようにそんな学校のある
街に越してきた一人です。マンガです。今思えば
本当に暴力マンガの真ん中に居たんだなぁと思います。
「はい〜〜〜マッテマッテぇ〜〜!ポケットの金を
全部だしなさぁ〜〜い」と先輩。
ぼこっ!あああごめん!いらついとうけんくさ!と
先輩。
でも、引っ越して2〜3年経つと自然になんというか
なれるのかなぁ。自分はそんなこと後輩にしたこと
ありませんでした。なにしろ、小学校5〜6年から
そんなような感じですから本当に、始めは地獄
でした。おまけにクラスではいじめ、放課後は街に
いる先輩方におどされ、たかられ、街の玩具屋やゲーセン
などいったら最後でした。ぼくらにたかる先輩がたは、
その先輩に、その先輩はその上の人に。
悪循環はそうして街を本当にマンガにしていました。
KUDO氏も書いてましたが、僕らが中3の時は最高に
いい空気でした。相変わらずの先輩も居るにはいました
が、みんな仲良くて先輩後輩関係も本当に良くなりました。
良い思い出は悪い思い出とはんはんくらいあるかなぁ。
感覚が麻痺している所もあったけど、とにかく暗い空気
が明るく変わりつつある感じでした。
その頃の先生方の血が出るような努力、改めて感謝しています。
きっと、あの頃のあの街に住む誰もが同じように
このままじゃいけない!と思っていたと確信します。
しかし、本当に最悪の暴力マンガそのまんまの街でした。
小学校のいじめは、家に帰ったらいじめっ子がいじめられてる
構図で、街全体が荒れていたんです。いじめっ子は
学校でいじめることで発散し、うちに帰ればやられる。
親たち、お年寄りまでが、荒れていたんです。
虐待、暴力、今でこそテレビに出てきて問題に取り上げ
ニュースになりますが、その程度ではありませんでした。
いいたくないことも山みたいにありますが、今みたい
にこれ以上やれば殺してしまうという判断はあった街
ではあったと思います。
しかし、10年住んでたんですが、今では、小学校
のいじめっ子は友達ですし、先輩でも会うと飲もうやぁ
みたいな感じだし、今は、みんな友達です。悪ばかり
でしたが、腐った奴はいませんでした。
また明日続き書きます。長くなる話ですから。
それでは、みなさんにとって明日が良い一日でありますように
また、明日。
謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れさまです。
銀河鉄道999を知ってますか?その映画の
エンディングテーマ、ゴダイゴの曲なんですが
これも、小5の引っ越しにまつわる思い出です。
引っ越しの前の日、登校するとクラスで一番
頭がいい太田くん、2〜3度しか話をしたこと
しかない彼が、さ・さ・・最後にけんぴに・・
う・・う・歌わせてください!
お別れ会なるものをやってもらってそれまでは
へらへらしてたんですが、彼の一言で教室は、
空気が一変!
「ゴダイゴの銀河鉄道999を歌います』
彼は、伴奏もない手拍子の中、歌ってくれました。
「さあ、行くんだ!その顔を上げて!新しい風に
心を洗おう!古い夢は、置いて行くが良い!
再び始まる、ドラマのために!」
僕は、涙が止まりませんでした。引っ越し先は
今までとは180度、違う世界が待ってました。
ボコボコにされる日々は、半年つづきました。
なにしろ、1対クラス全員(女子も含む)
でした。
精神的肉体的苦痛というのは、人を鍛える
側面をもってはいますが、僕は他人に対して
苦痛をあたえるような状況に断固反対です。
が、ある日僕は、立ち向かったんです。くわしく
は言いたくありません。でも太田くんが歌って
くれた999が頭をめぐったのを覚えています。
やすらぎよりも、すばらしいものがそこにありました。
壁をつきやぶったような、山を乗り越えたような
男として目覚めた瞬間でした。ここで生きて行くことを
覚悟した瞬間でした。999を聴くたび、胸が
いっぱいになるんです。未だに。
太田君の声をまだ覚えています。太田君も
気合い入ってたし、安らぐ前に立て!ということ
だと立ち向かった時思って、家に帰り夜寝るときに
「あ、そういう意味か!!!」
と思ったのも覚えています。
やすらぎは、大切なものです。しかし、男には
その前にしなければならないことがあることを
忘れることなく、さて、ビールでも飲んで
やすらぐとします。
それでは、皆さんにとって明日が良い一日で
ありますように。
また。明日。
謙太郎
銀河鉄道999を知ってますか?その映画の
エンディングテーマ、ゴダイゴの曲なんですが
これも、小5の引っ越しにまつわる思い出です。
引っ越しの前の日、登校するとクラスで一番
頭がいい太田くん、2〜3度しか話をしたこと
しかない彼が、さ・さ・・最後にけんぴに・・
う・・う・歌わせてください!
お別れ会なるものをやってもらってそれまでは
へらへらしてたんですが、彼の一言で教室は、
空気が一変!
「ゴダイゴの銀河鉄道999を歌います』
彼は、伴奏もない手拍子の中、歌ってくれました。
「さあ、行くんだ!その顔を上げて!新しい風に
心を洗おう!古い夢は、置いて行くが良い!
再び始まる、ドラマのために!」
僕は、涙が止まりませんでした。引っ越し先は
今までとは180度、違う世界が待ってました。
ボコボコにされる日々は、半年つづきました。
なにしろ、1対クラス全員(女子も含む)
でした。
精神的肉体的苦痛というのは、人を鍛える
側面をもってはいますが、僕は他人に対して
苦痛をあたえるような状況に断固反対です。
が、ある日僕は、立ち向かったんです。くわしく
は言いたくありません。でも太田くんが歌って
くれた999が頭をめぐったのを覚えています。
やすらぎよりも、すばらしいものがそこにありました。
壁をつきやぶったような、山を乗り越えたような
男として目覚めた瞬間でした。ここで生きて行くことを
覚悟した瞬間でした。999を聴くたび、胸が
いっぱいになるんです。未だに。
太田君の声をまだ覚えています。太田君も
気合い入ってたし、安らぐ前に立て!ということ
だと立ち向かった時思って、家に帰り夜寝るときに
「あ、そういう意味か!!!」
と思ったのも覚えています。
やすらぎは、大切なものです。しかし、男には
その前にしなければならないことがあることを
忘れることなく、さて、ビールでも飲んで
やすらぐとします。
それでは、皆さんにとって明日が良い一日で
ありますように。
また。明日。
謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れさまです。
当時、PUNKに夢中だった僕は、その日も
相変わらずのPUNKな格好で天神をフラフラ
歩いていました。ライブハウスでは、友達の
ライブをやっていて、でもなんとなく出口
あたりでいつも友達と
「なんで、学校やめたと?」と僕。
「おもろくない!バイトして金稼ぐほうが
いいと思わんや?」と友達。
「おまえ、学校行きながらバイトすりゃ
よかろうもん?」
「あ!そっか!校則げなぶっちぎって
ねぇ〜〜!なんではよ言ってくれんとぉ〜?」
「おまえ、それくらい小学生でもわかるぜぇ〜〜」
てな感じで当時、学校やめる友達が多くて
東福岡の友達ばかりではなかったからよく事情
はわからなかったけど、とにかく、PUNKをやる
ためにやめる友達もいました。
すると、友達が当時まだ瓶のコーラの1リットル
瓶を3本、背負って現れました。
瓶の口にひもをくくり付けて”ビン!ビン!ビン!”
音をたてながら、「1円玉がこげんあるけん募金
しに行こうや!国際センターに欽ちゃんがきとろうがぁ
〜〜?OOテレビOOテレビ!」
かくして、PUNK少年16人、OOテレビに募金
しにいきました。
「オオオオオ!欽ちゃん欽ちゃん!まじで
欽ちゃん!」欽ちゃんは疲れた表情でしたが、はい!はい!
と次々と握手していました。
それぞれ募金をし、ビン3本の友達はひときわ
清々しい顔をしていました。
帰り道、ヤンキー集団と遭遇!あ〜あ!毎度の事でした。
けんか。せっかくなんか清々しい気持ちになってたのに。
夏休みの後半、00テレビの思い出でした。
しかし、欽ちゃんの手、忘れてしまった。
どんなだったっけなぁ?
今日は涼しかったけどまだまだ猛暑続きそうですので
みなさん、油断しないでくださいね。
それでは、みなさんの明日が良い一日になりますように
また明日。
謙太郎
当時、PUNKに夢中だった僕は、その日も
相変わらずのPUNKな格好で天神をフラフラ
歩いていました。ライブハウスでは、友達の
ライブをやっていて、でもなんとなく出口
あたりでいつも友達と
「なんで、学校やめたと?」と僕。
「おもろくない!バイトして金稼ぐほうが
いいと思わんや?」と友達。
「おまえ、学校行きながらバイトすりゃ
よかろうもん?」
「あ!そっか!校則げなぶっちぎって
ねぇ〜〜!なんではよ言ってくれんとぉ〜?」
「おまえ、それくらい小学生でもわかるぜぇ〜〜」
てな感じで当時、学校やめる友達が多くて
東福岡の友達ばかりではなかったからよく事情
はわからなかったけど、とにかく、PUNKをやる
ためにやめる友達もいました。
すると、友達が当時まだ瓶のコーラの1リットル
瓶を3本、背負って現れました。
瓶の口にひもをくくり付けて”ビン!ビン!ビン!”
音をたてながら、「1円玉がこげんあるけん募金
しに行こうや!国際センターに欽ちゃんがきとろうがぁ
〜〜?OOテレビOOテレビ!」
かくして、PUNK少年16人、OOテレビに募金
しにいきました。
「オオオオオ!欽ちゃん欽ちゃん!まじで
欽ちゃん!」欽ちゃんは疲れた表情でしたが、はい!はい!
と次々と握手していました。
それぞれ募金をし、ビン3本の友達はひときわ
清々しい顔をしていました。
帰り道、ヤンキー集団と遭遇!あ〜あ!毎度の事でした。
けんか。せっかくなんか清々しい気持ちになってたのに。
夏休みの後半、00テレビの思い出でした。
しかし、欽ちゃんの手、忘れてしまった。
どんなだったっけなぁ?
今日は涼しかったけどまだまだ猛暑続きそうですので
みなさん、油断しないでくださいね。
それでは、みなさんの明日が良い一日になりますように
また明日。
謙太郎
みなさん、今日も一日、お疲れさまです。
後輩達、残念ながら負けてしまいました。
なんだか、勝ち上がる気がしていたんだけど
残念!
しかし、今年の東福岡は、2年生中心!
そうです!彼らは、来年必ずやってくれると
僕は信じてます。
葛谷監督は僕が居た頃は生活指導を担当され
ていたんですが、「こらぁ〜〜〜、中川〜〜
また髪の毛が逆立っとるぞぉ〜〜〜」
「こらぁ〜〜中川〜〜ブラックジーンズは
制服じゃないぞぉ〜〜〜」
「こらぁ〜〜中川〜〜胸のポケットからラ
イターがすけとるぞぉ〜〜〜〜」
たくさんお世話になりました。しかもまったく
変わってない。先生のことを知らない卒業生は
いないでしょう。
あそうそう!今の東福岡と僕が居た頃の東福岡
は全くちがい優秀な学校です。
偏差値でいうと僕の時、53、今63という感じ
です。熱中症で亡くなられる方もおられた暑い今年
の夏ですが、高校球児達のこと、高校野球連盟の
方々、どうか気を付けてみてあげてくださいね。
彼らのファイトにどれだけの人が励まされている
ことか。我が後輩たちは負けましたが、彼らの
がんばり、見守って、勇気、覇気、情熱などなど
彼らがくれる力を吸収させてもらおうと思います。
それでは、みなさんの明日が良い一日になります
ように。また明日。
謙太郎
後輩達、残念ながら負けてしまいました。
なんだか、勝ち上がる気がしていたんだけど
残念!
しかし、今年の東福岡は、2年生中心!
そうです!彼らは、来年必ずやってくれると
僕は信じてます。
葛谷監督は僕が居た頃は生活指導を担当され
ていたんですが、「こらぁ〜〜〜、中川〜〜
また髪の毛が逆立っとるぞぉ〜〜〜」
「こらぁ〜〜中川〜〜ブラックジーンズは
制服じゃないぞぉ〜〜〜」
「こらぁ〜〜中川〜〜胸のポケットからラ
イターがすけとるぞぉ〜〜〜〜」
たくさんお世話になりました。しかもまったく
変わってない。先生のことを知らない卒業生は
いないでしょう。
あそうそう!今の東福岡と僕が居た頃の東福岡
は全くちがい優秀な学校です。
偏差値でいうと僕の時、53、今63という感じ
です。熱中症で亡くなられる方もおられた暑い今年
の夏ですが、高校球児達のこと、高校野球連盟の
方々、どうか気を付けてみてあげてくださいね。
彼らのファイトにどれだけの人が励まされている
ことか。我が後輩たちは負けましたが、彼らの
がんばり、見守って、勇気、覇気、情熱などなど
彼らがくれる力を吸収させてもらおうと思います。
それでは、みなさんの明日が良い一日になります
ように。また明日。
謙太郎